公明党の連立離脱のゴタゴタで騒がしいタイミングで、ひっそりと発表された石破首相の「戦後80年に寄せて」の所感表明。
そもそもと言うか、「所感の表明」って、主張の発信としては最大級に弱いよなあ、という所感をここに表明します(笑)。
なんだか全文を読んでいると、「愛子天皇論3」118ページの、虚無感漂うこのコマそのままの所感(しつこい)を抱きました。

これだけ何の物議も呼ばないような「優等生的な戦後民主主義言説」だったら、某漫画作品のように(笑)「宣言」と銘打つぐらいでも、今さら何の軋轢すら産まなかったんじゃないだろうか?
その空虚の中で、自分の中の違和感メーターが大きく振れたのが次の箇所。
これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭(きょうじん)な民主主義が何よりも大切です。
おそらく石破の中では、「リベラリズム」=「理性的でカッコいい振る舞い」であり、この所感全体もそうしたスタイルに基づいたものなのでしょう。
しかし、そこで実際に展開されているのは、「何も言ってないに等しい」空虚な言説と、濃厚な「〝他人事〟感」です。
「歴史に学ぶ姿勢」などと言いながら、石破所感の中には、戦前から続く歴史のタテ軸の中に現在の自分が立っているという連続性の実感がまるで感じられない。それは「理性」ではなく、当事者性から逃避して「高見猿」になっているのと少しも変わりません。
その精神性は、個を歴史のタテ軸から分断してしまう元凶であり、その状態に陥った者は少なくとも「保守」ではないなと私は思います。
実は「リベラル」という語が用いられる場面の大多数に、私は同じ様な「〝他人事〟感」を感じており、それが昨今の「リベラル退潮」の大きな要因では、と感じています。
これは「理性」でも「客観」でもない、「思想する事からの逃避」でしかありません。
物事と対峙した時、あらゆる連続性から逃れられない「人間」という存在である己の思いがからむと、あらゆる葛藤や苦悩も発生します。そうした(動詞としての)「思想」の末に出てきたものにこそ価値は生まれるはずですが、その面倒くささから逃避すると、途端に「難易度が下がる」んですね。
そうすると、もはや自己暗示のレベルで「これは高尚な答えに違いない!」と思い込み、内心のみならず、世間に対して声高に発し始める。
こうして安易に生成されたものが(たぶん間違った意味の)「リベラリズム」として発信されている場面がとても多く、それが「大衆がリベラリズムに抱く違和感」とも直結していると思います。
その内実がどうであれ、ゴリゴリのネトウヨ発言を振りまいている者のほうが、表層部分では「熱量がありそう」に見え、それは「自分事として取り組んでいる」ような錯覚も生むので、そりゃあ参政党やら高市早苗やらに心酔する層が増えるのも理解できる(それらも「歴史の連続性から分断された存在」だと私は感じていますが)。
石破退陣が決まる前後あたりから、急に「〝リベラル系の人達〟がやけに石破さんに優しくなる」という現象が起きていますが(笑)、それは「共通する空虚の中の共鳴」なんじゃ、というちょっと意地悪な所感も持ってしまいます(笑)
「リベラリズム」の中でも「保守に内包できる」観点・価値観は実体性・身体性が強く、そこから外れるほどに「霞のような他人事」感が増していく。
「石破所感」はそうした印象を一層色濃くしたというのが私の所感です(お約束で(笑))。





















